林 芙美子 放浪記第一部 その8
Update: 2012-04-15
Description
参照テキスト:青空文庫図書カード№1813
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(十二月×日)
真黄いろに煤(すす)けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「ああ。」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈(あんどん)へ灯を入れるのを渋ったりしている。
「寒うなると人が動かんけんのう……」
しっかりした故郷と云うものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗(きれい)なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだいに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥(たんす)の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々蘇(よみがえ)って来る。長崎の黄いろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄やああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸(なんど)の奥から出て来るとまるで別な世界だった私を見る。夜、炬燵(こたつ)にあたっていると、店の間を借りている月琴(げっきん)ひきの夫婦が飄々(ひょうひょう)と淋しい唄をうたっては月琴をひびかせていた。外は音をたててみぞれまじりの雪が降っている。
(十二月×日)
久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる浪花節(なにわぶし)語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には鰯(いわし)を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」
「へえ……どんなひとですか?」
「実家は京都の聖護院(しょうごいん)の煎餅(せんべい)屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな……いい男や。」
「…………」
「どやろ?」
「会うてみようかしら、面白いなア……」
何もかもが子供っぽくゆかいだった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。
東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。
(十二月×日)
赤靴のひもをといてその男が座敷へ上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ?」
「僕ですか、二十二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は何故(なぜ)か見覚えがあるようであったが、考え出せなかった。ふと、私は明るくなって、口笛でも吹きたくなった。
月のいい夜だ、星が高く光っている。
「そこまでおくってゆきましょうか……」
この男は妙によゆうのある風景だ。入れ忘れてしまった国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても二人共だまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなってきた。男なんて皆火を焚(た)いて焼いてしまえだ。私はお釈迦(しゃか)様にでも恋をしましょう。ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私のこの頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」
「ハア?」
いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう……。久し振りに家の前の燈火のついたお泊宿の行燈を見ていると、不意に頭をなぐられたように母がいとしくなってきて、私はかたぶいた梟(ふくろう)の眼のような行燈をみつめていた。
「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
茶の間で母と差しむかいで一合の酒にいい気持ちになっている。親子はいいものだと思う、こだわりのない気安さで母の顔を見た。鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまう。
「あんなひとは厭だわねえ。」
「気立はいい男らしいがな……」
淋しい喜劇である。ああ、東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙をいっぱい書こう。
*
(一月×日)
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑(みかん)の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海は気むずかしく荒れていましたが、
空は鏡のように光って
人参(にんじん)燈台の紅色が眼にしみる程あかいのです。
島での悲しみは
すっぱり捨ててしまおうと
私は冷たい汐風(しおかぜ)をうけて
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
(一月×日)
暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。天保山(てんぽうざん)の安宿の二階で、何時(いつ)までも鳴いている猫の声を寂しく聞きながら、私は呆(ぼ)んやり寝そべっていた。ああこんなにも生きる事はむずかしいものなのか……私は身も心も困憊(こんぱい)しきっている。潮臭い蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。風が海を叩いて、波音が高い。
からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをむいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしようかとも思う。とても淋しい宿だ。「古創(ふるきず)や恋のマントにむかい酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。
汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。
(一月×日)
さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満(てんま)行きの電車に乗った。紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんより走る街並を眺めながら私は大阪も面白いと思った。誰も知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木が、腰をもみながら大風にゆれている。
毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼(あお)い顔をして忙がしく立ち働いていた。随分長い廊下だった。何もかもピカピカと手入れの行きとどいた、大阪人らしいこのみのこぢんまりした座敷に、私は初めて老いた女主人と向きあって坐った。
「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」
出鱈目(でたらめ)の原籍を東京にしてしまった私は、一寸(ちょっと)どう云っていいのかわからなかった。
「姉がいますから……」
こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持ちになってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。
「一郎さん!」
女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……」
役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺(しび)れて来るおもいだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。――天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船が沢山はいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。
――何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。
(一月×日)
駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。
五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔(こ)のように、毛布問屋へ住み込む事になった。
昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」
お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢(ながじゅばん)が、蒲団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないでピチャピチャ湯音をたてている。あの白い生毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。沈黙(だま)った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ、泪(なみだ)のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は顔をそむけた。
(一月×日)
毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。
東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭(ざけ)の一片一片を身をはがして食べるのも甘味(うま)い。
大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである蔭(かげ)で、私は人に隠れて思い切り足を掻(か)いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウえらい霜やけやなあ。」
番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。
「霜やけやったら煙管(きせる)でさすったら一番や。」
若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。
(二月×日)
「お前は金の性で金は金でも、金屏風(びょうぶ)の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。
只一冊のワイルド・プロフォンディスにも愉しみをかけて読むなり。
――私は灰色の十一月の雨の中を嘲(あざけ)り笑うモッブにとり囲まれていた。
――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。――夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ。夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、沢山星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぽっちで星を見上げている。
老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。
私はしみじみと白粉(おしろい)の匂いをかいだ。眉をひき、唇紅(くちべに)も濃くぬって、私は柱鏡のなかの姿にあどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛(くし)もさして、桃色のてがらもかけて髷(まげ)も結んでみたい。弱きものよ汝(なんじ)の名は女なり、しょせんは世に汚れた私でございます。美しい男はないものか……。なつかしのプロヴァンスの唄でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶(おけ)の中の魚のようにやわらかくくねってみた。
(二月×日)
街は春の売出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。――女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。
――随分苦労なすったんでしょう……という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんのたよりは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。
お店から一日ひまをもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。――午後六時二十分京都着。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛に蒼白い顔を埋めてむかえに出てくれていた。
「わかった?」
「ふん。」
二人は沈黙って冷たい手を握りあった。
私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目を射た。
椿(つばき)の花のように素敵にいい唇だ。二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京都の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。京極(きょうごく)は昔のままだった。京極の何とかと云う店には、かつて私達の胸をさわがした美しい封筒が飾窓に出ている。だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合せた。私は一人立ちしていても貧乏だし、お夏さんは親のすねかじりで勿論(もちろん)お小遺いもそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。女学生らしいあけっぱなしの気持ちで、二人は帯をゆるめてはお替りをして食べた。
「貴女ぐらい住所の変る人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。
円山公園の噴水のそばを二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山(とりべやま)はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……」
「行ってみましょうか!」
お夏さんは驚いたように眼をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」
京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、夜鳥が鳴いている。――下加茂のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い燈火がついていた。門の吊燈籠(つりどうろう)の下をくぐって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。メンドウな話をくどくどするより沈黙っていましょう……お夏さんが火を取りに階下に降りて行くと、私は窓に凭(もた)れて、しみじみと大きいあくびをした。
*
(七月×日)
丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。
真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。
そこで私は
貧しい袂(たもと)を胸にあわせて
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私はむやみに歩くのだ。――久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。――下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフエーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの金を、原稿用紙の下に入れておくと、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。
「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手をはったかなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を噛(か)みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑(ちょうしょう)しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い女の手紙の束をみつけ出したのだ。
――やっぱり温泉がいいわね、とか。
――あなたの紗和子より、とか。
――あの夜泊ってからの私は、とか。
私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。――温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけれども貴方も少しつくって下さいと書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやりたくなっている。原稿用紙の下にした二十円の金を袂に入れると、私はそのまま戸外に出てしまった。
あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりではなかったか……。私は肺病で狂人じみている、その不幸な男の為めに、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくてはならなかったの
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(十二月×日)
真黄いろに煤(すす)けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「ああ。」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈(あんどん)へ灯を入れるのを渋ったりしている。
「寒うなると人が動かんけんのう……」
しっかりした故郷と云うものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗(きれい)なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだいに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥(たんす)の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々蘇(よみがえ)って来る。長崎の黄いろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄やああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸(なんど)の奥から出て来るとまるで別な世界だった私を見る。夜、炬燵(こたつ)にあたっていると、店の間を借りている月琴(げっきん)ひきの夫婦が飄々(ひょうひょう)と淋しい唄をうたっては月琴をひびかせていた。外は音をたててみぞれまじりの雪が降っている。
(十二月×日)
久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる浪花節(なにわぶし)語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には鰯(いわし)を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」
「へえ……どんなひとですか?」
「実家は京都の聖護院(しょうごいん)の煎餅(せんべい)屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな……いい男や。」
「…………」
「どやろ?」
「会うてみようかしら、面白いなア……」
何もかもが子供っぽくゆかいだった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。
東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。
(十二月×日)
赤靴のひもをといてその男が座敷へ上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ?」
「僕ですか、二十二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は何故(なぜ)か見覚えがあるようであったが、考え出せなかった。ふと、私は明るくなって、口笛でも吹きたくなった。
月のいい夜だ、星が高く光っている。
「そこまでおくってゆきましょうか……」
この男は妙によゆうのある風景だ。入れ忘れてしまった国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても二人共だまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなってきた。男なんて皆火を焚(た)いて焼いてしまえだ。私はお釈迦(しゃか)様にでも恋をしましょう。ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私のこの頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」
「ハア?」
いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう……。久し振りに家の前の燈火のついたお泊宿の行燈を見ていると、不意に頭をなぐられたように母がいとしくなってきて、私はかたぶいた梟(ふくろう)の眼のような行燈をみつめていた。
「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
茶の間で母と差しむかいで一合の酒にいい気持ちになっている。親子はいいものだと思う、こだわりのない気安さで母の顔を見た。鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまう。
「あんなひとは厭だわねえ。」
「気立はいい男らしいがな……」
淋しい喜劇である。ああ、東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙をいっぱい書こう。
*
(一月×日)
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑(みかん)の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海は気むずかしく荒れていましたが、
空は鏡のように光って
人参(にんじん)燈台の紅色が眼にしみる程あかいのです。
島での悲しみは
すっぱり捨ててしまおうと
私は冷たい汐風(しおかぜ)をうけて
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
(一月×日)
暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。天保山(てんぽうざん)の安宿の二階で、何時(いつ)までも鳴いている猫の声を寂しく聞きながら、私は呆(ぼ)んやり寝そべっていた。ああこんなにも生きる事はむずかしいものなのか……私は身も心も困憊(こんぱい)しきっている。潮臭い蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。風が海を叩いて、波音が高い。
からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをむいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしようかとも思う。とても淋しい宿だ。「古創(ふるきず)や恋のマントにむかい酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。
汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。
(一月×日)
さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満(てんま)行きの電車に乗った。紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんより走る街並を眺めながら私は大阪も面白いと思った。誰も知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木が、腰をもみながら大風にゆれている。
毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼(あお)い顔をして忙がしく立ち働いていた。随分長い廊下だった。何もかもピカピカと手入れの行きとどいた、大阪人らしいこのみのこぢんまりした座敷に、私は初めて老いた女主人と向きあって坐った。
「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」
出鱈目(でたらめ)の原籍を東京にしてしまった私は、一寸(ちょっと)どう云っていいのかわからなかった。
「姉がいますから……」
こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持ちになってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。
「一郎さん!」
女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……」
役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺(しび)れて来るおもいだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。――天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船が沢山はいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。
――何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。
(一月×日)
駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。
五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔(こ)のように、毛布問屋へ住み込む事になった。
昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」
お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢(ながじゅばん)が、蒲団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないでピチャピチャ湯音をたてている。あの白い生毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。沈黙(だま)った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ、泪(なみだ)のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は顔をそむけた。
(一月×日)
毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。
東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭(ざけ)の一片一片を身をはがして食べるのも甘味(うま)い。
大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである蔭(かげ)で、私は人に隠れて思い切り足を掻(か)いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウえらい霜やけやなあ。」
番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。
「霜やけやったら煙管(きせる)でさすったら一番や。」
若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。
(二月×日)
「お前は金の性で金は金でも、金屏風(びょうぶ)の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。
只一冊のワイルド・プロフォンディスにも愉しみをかけて読むなり。
――私は灰色の十一月の雨の中を嘲(あざけ)り笑うモッブにとり囲まれていた。
――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。――夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ。夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、沢山星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぽっちで星を見上げている。
老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。
私はしみじみと白粉(おしろい)の匂いをかいだ。眉をひき、唇紅(くちべに)も濃くぬって、私は柱鏡のなかの姿にあどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛(くし)もさして、桃色のてがらもかけて髷(まげ)も結んでみたい。弱きものよ汝(なんじ)の名は女なり、しょせんは世に汚れた私でございます。美しい男はないものか……。なつかしのプロヴァンスの唄でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶(おけ)の中の魚のようにやわらかくくねってみた。
(二月×日)
街は春の売出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。――女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。
――随分苦労なすったんでしょう……という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんのたよりは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。
お店から一日ひまをもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。――午後六時二十分京都着。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛に蒼白い顔を埋めてむかえに出てくれていた。
「わかった?」
「ふん。」
二人は沈黙って冷たい手を握りあった。
私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目を射た。
椿(つばき)の花のように素敵にいい唇だ。二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京都の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。京極(きょうごく)は昔のままだった。京極の何とかと云う店には、かつて私達の胸をさわがした美しい封筒が飾窓に出ている。だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合せた。私は一人立ちしていても貧乏だし、お夏さんは親のすねかじりで勿論(もちろん)お小遺いもそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。女学生らしいあけっぱなしの気持ちで、二人は帯をゆるめてはお替りをして食べた。
「貴女ぐらい住所の変る人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。
円山公園の噴水のそばを二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山(とりべやま)はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……」
「行ってみましょうか!」
お夏さんは驚いたように眼をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」
京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、夜鳥が鳴いている。――下加茂のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い燈火がついていた。門の吊燈籠(つりどうろう)の下をくぐって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。メンドウな話をくどくどするより沈黙っていましょう……お夏さんが火を取りに階下に降りて行くと、私は窓に凭(もた)れて、しみじみと大きいあくびをした。
*
(七月×日)
丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。
真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。
そこで私は
貧しい袂(たもと)を胸にあわせて
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私はむやみに歩くのだ。――久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。――下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフエーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの金を、原稿用紙の下に入れておくと、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。
「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手をはったかなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を噛(か)みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑(ちょうしょう)しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い女の手紙の束をみつけ出したのだ。
――やっぱり温泉がいいわね、とか。
――あなたの紗和子より、とか。
――あの夜泊ってからの私は、とか。
私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。――温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけれども貴方も少しつくって下さいと書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやりたくなっている。原稿用紙の下にした二十円の金を袂に入れると、私はそのまま戸外に出てしまった。
あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりではなかったか……。私は肺病で狂人じみている、その不幸な男の為めに、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくてはならなかったの
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